競馬日記 93

「あれはガンジス川だよ」

彼は、朝の教室に同級生が入ってくるように、ぼくの夢に出てくる。

ぼくも、すっかり慣れてしまった。

「思ったより綺麗だ」

「思ったよりは失礼だな。ガンジス川はインド人にとって神聖な川だよ。ヒンズー教ではガンガと呼ばれる女神として神格化されているんだ」

「世界でもっとも汚染された川だろ」

「死体や汚物がそこら中に流れてるのは事実だね」

「泳いだり、飲み水として飲んだり、ぼくには信じられないよ」

「インドに行ってみたい?」

「ぼくがまだ二十代だったらね。インドに行ったら人生観が変わるってよくいうだろ。ぼくはべつに人生観を変えたいとは思わないよ」

「インドにも競馬があるらしいよ」

「へえ」

「ゼロの概念が発見されたのもインドなんだよ」

「へぇ」

「インド人は数学的にも文化的にもとても優れていた民族なんだよ。民族といっても、とても人口の多い国だから多民族国家だけどね。日本との繋がりもとても深い。仏教にカレーもそうだ」

「カレーは、イギリス経由なんだろ」

「厳密にはインド発祥だよ」

「厳密には」

「火葬された遺灰は、ガンジス川に流す。輪廻転生の連鎖から抜け出して解脱できると信じられている」

「ぼくは解脱したいとは思わないかな」

「どうして? 解脱は魂の救済だよ」

「もう一度、会いたいと思う人がいるから。解脱したら、二度と会えないだろ」

「なるほどねぇ。宗教観は人それぞれだからね。仏陀は人生とは苦しみだと考えた。いわゆる4つの出会いの逸話だよね。その苦しみからの解放が解脱だ」

「でも、楽しいこともあったはずなんだよ。王族だったんだから。競馬だってそうだろ」

「競馬のどういうところが好き?」

「お金が増えることかな」

「競馬のどういうところが嫌い?」

「お金がなくなることかな」

「とても素直でいい。一番説得力がある」

風に長いたてがみを揺らして、彼は前足で地面をかいて笑った。

ガンジス川の波が静かに打ち寄せる。

「先週のマイルCSは残念だったね」

「66%は当たってたよ」

「それもひとつの物の見方だ」

「お金は増えなかったけどね」

「ウインマーベルの18着について聞かせてよ」

「4着よりは、はるかにマシだ」

「なるほど。そういう考え方もできる」

「それにしても悔しいなぁ。一週間前まではウォーターリヒトを買うつもりだったんだよ。負け惜しみじゃなくてさ。内枠に入ったのと菅原君がオフトレイルを選んだのを見てやめた。3着だったらありだよなあ」

「ジャパンカップは当ててくれよ」

「今週は自信があるんだ」

「君にしてはめずらしいじゃないか」

「本当はマスカレードボールを買うつもりだったんだよ。なにせルメール騎手が自信満々だからさ。でも、枠順を見て考えを180度変えた」

「どんなふうに?」

「JRAがクロワデュノールを勝たせに来てるってさ。君も知ってるだろ、東京2400は内枠が有利だって」

「おやおや」

「5馬身は有利だよ。あとはジャスティンパレスがクロワデュノールの後ろを着いて回ればいいだけさ」

「出遅れないかな」

「そうなったらテレビのチャンネルを変える。それにこうも思うんだ。いつものぼくならマスカレードボールからダノンデサイルかタスティエーラを買っている。つまりその逆を買えば当たるんじゃないかってさ。これはなかなかの名案だろ。自分で自分をあざむく」

「なんだか寒気がしてきたよ」

「なにが」

「君が壮大なフラグを立てたんじゃなかってさ」

「やめてくれよ、縁起でもない」

「ほかに買いたい馬はいないのかな」

「穴だったら逃げるのが確実なホウオウビスケッツか、天皇賞秋で前が壁だったブレイディヴェーグかな。ぼくはいまでも、ちゃんとスタートを出てたら馬連が当たってたと信じてるよ」

「君は思ったよりも根に持つタイプだね」

「そうかもしれない。でも、それも含めてぼくなんだよ」

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