
目を覚ますと、このあいだの馬がぼくの顔を覗き込むように見ていた。
心地いい波の音が聞こえる。
「やあ、また会ったね」
「サハラ砂漠ではないみたいだ」
「父島だよ」
「小笠原諸島の?」
「君が、いつか行ってみたいと思っているだろ」
「へー、よく知ってるな」
「君のことならなんでも知ってるよ。毎日、タリーズの無糖コーヒーを飲んでるいこことや、YouTubeでうにとおからのチャンネルを見てることも。そんなことより、先週の秋華賞はぼくのいった通りになっただろ?」
「たしかに」
「惜しかったね。エリカエクスプレスは、とてもいい線を突いてた。ルメールの好騎乗がなかったら、君はいまごろハワイ旅行をしてただろうね」
「それも含めて競馬だよ」
「やけに達観してるじゃないか。もっと悔しがるかと思ってたよ」
「うーん。あれ以上のレースは望めそうもなかったし」
「なんだか寂しいよ」
「どうして?」
「君の中から競馬に対する熱量がしだいに失われていくのを、隣で眺めていることが。昔は競馬新聞を眺めているだけで1日を潰せてただろ」
「いい年齢になったから」
「ウソだね。自分の可能性に限界を感じてるのさ」
「否定はしないよ」
「得意のデータ予想はやめたのかい? 最近、更新してないみたいだけど」
「すこし話しづらいな」
「ぜひ聞かせてよ。それにどの道、話すことになる。ちがうかい?」
「……ブログを閉鎖しようと思うんだ、いまの契約が切れたときに」
「そいつは残念だな。楽しみにしてた人もいたはずなのに」
「そうだといいけど。データもクラッシュしたし、そろそろ潮時だと思ってさ」
「あれは、今年一番悲しい出来事だったね。レースデータが溜まるのを、君は貯金通帳の数字が増えるのを眺めるみたいに楽しみにしてた」
「似たようなサイトはたくさんあるし、どちらにしても、こんなことはいつまでも続けられないよ」
「この世界のあらゆる物は自転車操業だ。人も会社も、宇宙さえも。漕ぐのをやめたらパタンと倒れる。君は一人で漕ぐのが疲れたんだね」
「そうかもしれないし、目的地に到達したのかもしれない。自転車は移動するための手段だから。たまに自電車を漕ぎ続けるのが目的になってる人もいるけど、ぼくにはそういう生き方は向いてないんだよ、きっと」
「努力し続けることが?」
「意味もなく走り続けることが」
「なるほどなぁ。どちらにせよ、君が決断したことを、ぼくは応援するよ」
「うん」
「今週は菊花賞だ。京都競馬場まで、ぼくが責任を持って送り届けるよ。あいにくの空模様になりそうだ」
「そのまえに、ひと泳ぎしていいかな。海がとてもきれいだ」
「やっぱり君はわがままだね」
「そうかもしれない」
小さなサンゴのかけらがたくさんある波打ち際に立って夜の海を眺めた。
月明かりに照らされて、まっ黒な海に光の道がキラキラと輝いていた。
「泳がないの?」
「考えてみたら水着を持ってない」
「裸で泳げばいいさ。ほかに誰もいない」
「君がいるだろ」
「おかしなことをいうね。ぼくは生まれた時から裸だよ」
「そういえば、そうだ」
南の青い海を、だれの目も気にせずに裸で泳げたらどんなに気持ちいいだろうと考えてみる。
「菊花賞は当たるといいね。馬券は素直さが大事だよ」
「それが今週の助言? それとも予言かな」
「どっちだっていいさ。君はいつもひねって失敗してるだろ」
「そうかもしれない。でも、それはぼくの生き方そのものなんだ」


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