競馬日記 100

「先に話しておくけど、会社の同僚にいたんだよ」
「サークルのメンバー?」
「行方不明になった男子学生の親友が。混乱するといけないから行方不明になった男子学生をA、ぼくの元同僚で男子学生の親友をBで説明させてもらうよ。そのまえにいいかな」

 拝殿の前に立つと、財布から小銭を取り出して賽銭箱に投げた。
 小銭は乾いた音を立てて転がった。中身はからっぽだ。たぶん、何年も前から。
「ここに来たのは一度だけ。Bに話を聞いて、どうしても自分の目で見たくなった。また来るとは思わなかった」
 ぼくは賽銭箱を背もたれにして、いまにも底が抜けそうな床に腰を下ろした。
 無人の境内に、小さな雪がチラチラと舞いだしていた。
 ぼくは、彼の黒くて大きな瞳に映る雪を見つめていた。

「当時、Bは東京の美大に通ってた。二人は高校の同級生だったんだ。きっかけは、美術の授業でスケッチの場所を探して校内をうろついてて中庭で出くわした。Aは音楽室から無断で持ち出したアコースティックギターを弾いてて、邪魔しないように立ち去ろうとしたBを呼び止めて、よければ自分をモデルに描いてくれるように声をかけた。以前からBの絵が気にいっていたと付け加えて。
 描き終わったスケッチを見て、幼馴染の彼女に見せてやりたいから譲ってもらえないかなと頼んだ。
 無論、BはOKした。絵はまた描けばいいし、褒めてくれたことが素直にうれしかった。
 Bにとって高校に入学してはじめて出来た、というか唯一の友人だった。部活のない日には、Aの自転車の後ろに二人乗りして、近くのバッティングセンター行ったり、休日には二人だけで夜釣りに遠出したりした。
 陸上部だったAは教師や上級生からも一目置かれる生徒で、美術部で地味な存在だったBとは対照的だった。Aの親友ということで、自然とクラスメイトの輪に加わるようになった。高校を卒業してもたまに電話で連絡を取りあっていた」

「めずらしい組み合わせだ。体育会系と文化系は水と油みたいなものだから」
「Aは勉強が出来て気取らない性格で、女子にとても人気があったそうだ。その一方で、どこか壁を作るタイプで、Bにだけ進路の悩みや幼馴染の恋人との関係について打ち明けていた」
「ずいぶんとおしゃべりみたいだね、Bは。行方不明になった親友との秘密を部外者の君に教えたりして」
「まったく逆さ。Bは絵を描くことと誠実さが取り柄のような男だ。すべてのカタがついて、だれかに聞いてほしかったんだ。自分の中だけに留めておくにはあまりに重たすぎた」
「なんだかわけありみたいだ」

「Aが行方不明になったのを知り、Bは居ても立ってもいられず地元に帰った。車で廣實神社(つまりこの場所)に来て、自分の目で現場を確認した。わずかな希望を胸に。洞窟は規制線が張られて立ち入り禁止になっていた」
「世の中は思ってるよりもバカが多い。いまなら視聴回数目当てのユーチューバーが突撃してる」

「その夜のことだ、Bが不思議な夢を見たのは。Aが出て来て、『この通り、ぼくはピンピンしてるよ。しばらくしたらそっちに帰るから、悪いけど洞窟を脱出するための準備をしててくれ。こんなことを頼めるのは君だけだ』と告げた。鮮やかな朱色をした廣實神社に立って」

「ありえないね」
「理屈や科学では説明できないような体験の一度や二度は、だれだってあるんじゃないかな。こうして君と話していることが、なによりの証拠だ」
「夢であの世と繋がる?」
「Bはそうは考えなかった。Aは実体として生きていて、普通の人間が認識できない世界に迷い込んだだけではないかと。警察が地底湖は水中でどこかと繋がっているかもしれないと話しただろ。Aは元々普通の人間とは変わったところがあったし、親友が困っているのなら助けるのが当然だ」

「誠実というより、かなりのお人よしだ」
「警察に話したところで相手にされるわけがない。Bは、地元の住民にかけあうことにした。
 廣實村はダム湖に沈んでいたけど、村民の何人かは高台に移転して暮らしていた。その中に元村長の息子で猟師している男性がいたんだ。Bは夢の内容を打ち明けた。男性は、しばらく考えたあとで、≪あの地に流れ着いたのなら当分は帰ってくることはない。何年も待ち続ける覚悟が必要だ≫といって、洞窟に入る許可をくれた。洞窟に入る前に男性に声をかけること、太陽が昇っている間に必ず出ること、この二つを守るのを条件に」

「1つ目はわかるよ、遭難に備えて。どうして太陽が昇っている間に出ないとダメなんだろう。あの地ってなにさ?」
「Bもまったく同じ気持ちだった。洞窟は本来、一族以外は入ってはいけない神聖な場所だ」
「左近の?」
「古い土地では、そういう旧家はわりとあるよ」
「ますます横溝正史的なおどろおどろしさを感じるね」
 ぼくはうなずいた。
 彼はたてがみを揺らして、こちらに顔を向ける。白い鼻息を蒸気のようにまき散らす。

「洞窟に一人で入るのは、まともな神経ではムリだ。おまけにBはケイビングのケの字も知らない素人だ」
「考えただけでブルりそう」
「いつまでも大学を休んでいるわけにはいかないしね」

 地元と東京を往復する、Bの生活がはじまった。
 週末になるとレンタカーで廣實村に行き洞窟に入る。平日は大学に通って、費用を工面するためのバイトに励んだ。

 ラッキーだったのは、救助隊が設置したロープがそのまま残さされていたことだ。
 ケイビング技術のないBでも道具の扱いさえ覚えれば、崖を安全に昇り降りすることができた。
「Bは猟師の男性に借りた古いランタンを持ち込んで、地形を覚えるためにスケッチをはじめた。洞窟で一番怖いのはなにかわかる?」
「迷子になる?」
「暗闇の隙間から得体の知れないなにかが、こちらを見ているように感じることさ。そういう時は、そちらを見てはいけない。意識してもいけない。奴らは、気になって近づいてくるのを待ち伏せているんだ」
「やめてくれよ」

「猟師の言葉通り、タダの洞窟ではないことをBは肌で感じていた。スケッチは自分の中の恐怖を振り払う意味もあった。恐怖のほとんどは未知から来る。相手を理解すれば心に余裕が生まれる。Bはスケッチすることで暗闇に対抗した。鉛筆と紙が彼の武器になった。スケッチブックのページを開くたびに、暗闇は確実に後退して光の領域が増えた。ある程度描き終えると、分岐点に反射マーカーを設置した。ここまでは克服したという意味を込めて。脇道にはガイドロープを張った。ところどころにテープで出口の方向を示した。日没が近づく前に洞窟を出る。この作業を地道に続けた」
「気が遠くなるような作業だね」
「地底湖に到達したのは、1年後の冬になっていた。その時のBの気持ちはわかる?」
「達成感? なわけかないか」
「鏡のような地底湖を見て、Aは生きていると直感したんだ。恐怖を1ミリも感じなかった」

 センサーライトを3か所に設置し、Bはそこでもスケッチを描き続けた。
 懐中電灯と乾いた衣類、タオル・予備の乾電池と板チョコレートを、二重にしたビニール袋に入れて岩の上に置いた。ライトがAを感知して点灯すれば、すぐにわかるように。

「Aが戻ってくるとしたら冬だ。Bは1年ごとに洞窟に入って、痕跡がないか確認して備品や電池を新品に交換をした」
「毎年?」
「そう、毎年だ。Bには、ほかにやらなければいけないことがあった。Aの恋人に会って元気づけることだ」
「そこまで面倒を見る必要はないだろ。洞窟をはいずり回ってるだけでもかなりの重労働なのに」
「君みたいに割り切れたら、きっと、Bも楽だったろうね」
 ぼくは肩をすくめて苦笑した。
 彼の意見はもっともだ。結果的にいっても、Bはそれ以上立ち入るべきではなかった。彼はいまでもそのことを後悔し続けている。

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