
「あれはガンジス川だよ」
彼は、朝の教室に同級生が入ってくるように、ぼくの夢に出てくる。
ぼくも、すっかり慣れてしまった。
「思ったより綺麗だ」
「思ったよりは失礼だな。ガンジス川はインド人にとって神聖な川だよ。ヒンズー教ではガンガと呼ばれる女神として神格化されているんだ」
「世界でもっとも汚染された川だろ」
「死体や汚物がそこら中に流れてるのは事実だね」
「泳いだり、飲み水として飲んだり、ぼくには信じられないよ」
「インドに行ってみたい?」
「ぼくがまだ二十代だったらね。インドに行ったら人生観が変わるってよくいうだろ。ぼくはべつに人生観を変えたいとは思わないよ」
「インドにも競馬があるらしいよ」
「へえ」
「ゼロの概念が発見されたのもインドなんだよ」
「へぇ」
「インド人は数学的にも文化的にもとても優れていた民族なんだよ。民族といっても、とても人口の多い国だから多民族国家だけどね。日本との繋がりもとても深い。仏教にカレーもそうだ」
「カレーは、イギリス経由なんだろ」
「厳密にはインド発祥だよ」
「厳密には」
「火葬された遺灰は、ガンジス川に流す。輪廻転生の連鎖から抜け出して解脱できると信じられている」
「ぼくは解脱したいとは思わないかな」
「どうして? 解脱は魂の救済だよ」
「もう一度、会いたいと思う人がいるから。解脱したら、二度と会えないだろ」
「なるほどねぇ。宗教観は人それぞれだからね。仏陀は人生とは苦しみだと考えた。いわゆる4つの出会いの逸話だよね。その苦しみからの解放が解脱だ」
「でも、楽しいこともあったはずなんだよ。王族だったんだから。競馬だってそうだろ」
「競馬のどういうところが好き?」
「お金が増えることかな」
「競馬のどういうところが嫌い?」
「お金がなくなることかな」
「とても素直でいい。一番説得力がある」
風に長いたてがみを揺らして、彼は前足で地面をかいて笑った。
ガンジス川の波が静かに打ち寄せる。
「先週のマイルCSは残念だったね」
「66%は当たってたよ」
「それもひとつの物の見方だ」
「お金は増えなかったけどね」
「ウインマーベルの18着について聞かせてよ」
「4着よりは、はるかにマシだ」
「なるほど。そういう考え方もできる」
「それにしても悔しいなぁ。一週間前まではウォーターリヒトを買うつもりだったんだよ。負け惜しみじゃなくてさ。内枠に入ったのと菅原君がオフトレイルを選んだのを見てやめた。3着だったらありだよなあ」
「ジャパンカップは当ててくれよ」
「今週は自信があるんだ」
「君にしてはめずらしいじゃないか」
「本当はマスカレードボールを買うつもりだったんだよ。なにせルメール騎手が自信満々だからさ。でも、枠順を見て考えを180度変えた」
「どんなふうに?」
「JRAがクロワデュノールを勝たせに来てるってさ。君も知ってるだろ、東京2400は内枠が有利だって」
「おやおや」
「5馬身は有利だよ。あとはジャスティンパレスがクロワデュノールの後ろを着いて回ればいいだけさ」
「出遅れないかな」
「そうなったらテレビのチャンネルを変える。それにこうも思うんだ。いつものぼくならマスカレードボールからダノンデサイルかタスティエーラを買っている。つまりその逆を買えば当たるんじゃないかってさ。これはなかなかの名案だろ。自分で自分をあざむく」
「なんだか寒気がしてきたよ」
「なにが」
「君が壮大なフラグを立てたんじゃなかってさ」
「やめてくれよ、縁起でもない」
「ほかに買いたい馬はいないのかな」
「穴だったら逃げるのが確実なホウオウビスケッツか、天皇賞秋で前が壁だったブレイディヴェーグかな。ぼくはいまでも、ちゃんとスタートを出てたら馬連が当たってたと信じてるよ」
「君は思ったよりも根に持つタイプだね」
「そうかもしれない。でも、それも含めてぼくなんだよ」



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