
「ここはどこだろう」
「どこだと思う?」
「港町みたいだけど」
「見覚えがあるはずだよ。ここは君の夢の中だからね」
ぼくは目を細めて、遠くを見た。
海を挟んだ向こう側に赤いタワーが見える。
「もしかして神戸?」
彼は鼻の穴を広げて悪戯っぽく笑った。
「君の夢の出発点だ」
夢の中で見る、夢の出発点と、ぼくはつぶやく。
「神戸の思い出を聞かせてよ」
「ぼくにとってはめずらしく、いい思い出ばかりだ。ルミナリエに”さんちか”だろ。それに中華街。元町の駅を出てすぐ横にチャーハンのうまい本場の中華屋があって、その目の前にウィンズがあったんだよ」
「いまもあるよ」
「へぇー、そうなんだ。餃子専門店の名前なんていったかな。いつも行列ができてた」
「関西弁をしゃべる女の子は、どうしてあんな魅力的なんだろうね。お世辞抜きで2割り増しで可愛く見える」
「たしかに」
「阪神競馬場にもよくいった?」
「帰りの電車がすごい混むんであんまり」
「神戸の街はとても居心地がよかったみたいだね」
「野生の猪がいるのには驚いたけどね。残念なのは、有名な暴力団の本部を見にいけなかったことぐらいだよ」
「とても物騒だね」
「友達がルミナリエのある商店街の道路を挟んだ向かい側に住んでたんだよ。半分地下みたいな6畳ぐらいの物件だけど、それでも月6・7万してたかな。家賃はあの当時からすごく高かったから、いまなら10万は超えてるんじゃないかな。いまごろなにをしてるんだろ」
「連絡取ってないの」
「ぜんぜん。とても優秀なヤツだったよ。変人だったけどね。国立大学を卒業してわざわざ来てたと思う。自分はロリコンだって自称してさ。まともな恋愛は絶対無理だっていってた」
「たしかに変人みたいだ」
「頭のいいやつは、どこかおかしいところがあるんだよ。教育学部を選らばなかっただけまだ救いがあるよ。将来設計はしっかりしてたから、いまでも開発してるのかもしれないな」
「なにを?」
「パチスロ。ギャンブル産業は安定してるし、仕事がそこまで忙しくないから長く続けられるってさ。そのうちカジノもできるから将来安泰だっていってたな」
「ギャンブル仲間ってわけだ」
「まあね。ぼくも似たようなもんだから人のことはいえないよね」
「君は人生ではじめて努力した。そして、見事夢を叶えた。プロ野球選手ほど難しいわけじゃないけど、それでもだれもがなれるわけじゃない」
「その結果がこれだけどね」
「後悔してる?」
「後悔はしていないよ。人生で一番充実してたのは事実なんだ。人生は目標を持つべきだ。たとえその先に大きな落とし穴があるとしても、それを否定することはだれにもできない。ぼくは、夢を見過ぎただけなんだよ」
「運も悪かったよね」
「そのことはあんまり話したくない。どちらにしてもぼくは一流にはなれなかったよ」
「どうしてそう思うの?」
「上司に東大卒の人がいたんだ。人格者でとても優秀で仕事もできて。とても尊敬してた。この人の下で働けたらなと思ってたし、いまもそう思ってる。その優秀な人が、まったく歯が立たない切れ者がいた。開発の中心人物でとにかく頭の回転がすごいんだよ。常人の3~5倍の仕事量を一人でこなす。スーパーコンピューターだよ。あー、これは勝てないって思った」
「そこで君は自分の才能に限界を感じたんだ。プロ野球選手を夢見てた野球少年が現実を知って野球をあきらめるように」
「まあね。判断がすこし遅すぎた」
「才能がないのが辛い?」
「才能がないと自分でもわかっているのに夢をあきらめきれないのが辛いんだよ」
そうしてぼくは深い谷底に転がり落ちた。
全身傷だらけで這い上がることもできない。
たまに通りがかりの親切な人がロープを垂らしてくれても、ぼくはその救助を拒み続けた。
昼には川の水をすすって、夜になると頭上の星を一人で見上げていた。
星はとてもきれいだった。
「それでも生きてるんだからたいしたもんだ」
「これでもかなりマシになったほうなんだ」
「人が不幸を感じるのは、周囲の人間と比較するからだ。君は一見、周りのことを気にしていないようで、実際には他人の目をすごく気にしている」
「そうかもしれない」
「周りとちがうことに不安を感じる。君の価値観が君自身を追いつめてる」
「だとしても、それはぼく自身の責任だ。ほかのだれかが悪いわけじゃない。憂鬱だよ。ぼくは、この年齢になってもぼく自身を乗りこなせていない。よく挫折が多い人間ほど強くなるっていうだろ。あれは嘘っぱちだよ。挫折を乗り越えられたからいえる言葉であって、乗り越えられなくてそのままフェードアウトしていった人もたくさんいるのにさ、世の中には」
「生存者バイアス」
ぼくは重い息を吐いた。
「ごめん。なんだか暗い話をしちゃって。そんなつもりじゃなかったんだよ。いつものように競馬の話でもしようよ。すこしは明るい気持ちになれるだろ。すくなくとも予想をしているあいだは嫌なことを忘れられる」
「もしかすると、競馬の存在価値はその一点に集約されるのかもしれない」
ぼくはその意見に同意した。
馬の犠牲の上に成り立っているとしても、必要としてる人がいるのも事実だ。
「ジャパンカップの感想を聞かせてよ」
「すばらしいレースだったね。2025年のベストレースだ。だれかさんがスタートで落馬したのを除けば」
「あれは笑えるよね、実際」
「買ってなかったから良かったようなものの、レースの邪魔はしないでほしい、プロとして」
「まったくその通りだ。アクシデントだとか、悪気があるないの問題じゃない。むしろ悪気がないほうが悪いぐらいだ。G1レース。それも日本競馬最高峰のジャパンカップだもんな。一流のソムリエが高級ワインですといってワインビネガーを客に飲ませるようなもんだ」
「本人はまったく反省してないみたいだけど」
「それぐらいにしてやれよ。あれで繊細なところもあるんだよ、彼は」
「へー、どの辺が」
「目を見たらわかる」
「目をねえ」
「しかし、そうなるとチャンピオンズカップはウィルソンテソーロを買うわけにはいかないね」
「勝ちでもしたら暴動が起きるんじゃないかな」
「中京競馬場は、基本的には前有利だよ。ナルカミがいいんじゃないかな。馬の意見として」
「馬の意見。強いとは思うけど3歳だろ。それにオッズがなぁ」
「だまされたと思ってさ」
「悪いけど買う馬は決まってるんだ、先週から」
「どの馬だい?」
「ラムジェットさ」
「ラムジェット!」
彼は目ん玉を大きく見開いて驚いた。
ぼくを見て、正気か? といいたそうな顔をしている。
その語尾には、「三浦皇成だぞ」というフレーズが見え隠れしていた。
「もし買わなくて来たら絶対に後悔する。みやこSでも買ってたんだ。単勝を買いたかったけど、調教がよく見えなかったんで複勝にした」
「君がそこまでいうなら止めないよ。ただ脚質がなぁ。追い込みだろ」
「そこが逆に人気の盲点なんじゃないかと思ってさ。前が早くなれば、いくら中京でも追い込みが効くはずだよ。あとはナルカミとダブルハートボンドがやり合ってくれるのを願うのみさ」
「金額が端数になってるみたいだけど?」
「ステイヤーズSでマイネルカンパーナの複勝が当たったんだ。危ないところだったよ。もしそいつが外れてたら、馬券を買うお金がなくなってた」


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