
「いつもにまして絶景だね」
「あれはエベレストだよ」
「そうじゃないかと思った」
「エベレストに登ってみたい?」
「あいにく、ぜんぜん」
「もったいない。地球で一番高い場所ってことは、宇宙に一番近い場所ってことだろ。きっと素晴らしい星空が見れるだろうね」
「死体がゴロゴロしてるんだろ。あとトイレの問題もあるし。正直な話、死の危険を冒してまで登る、登山家の気持ちがわからないよ」
「遠くから見ると美しいけど、近づくとまったく別の現実がある。なんだってそうさ。たとえば、競馬の世界も」
「君がいうと重みがあるな」
「エベレストって昔は海の底だったんだよ。イエローバンドからは化石が見つかるんだ」
「何千万年もまえの話だろ」
「インド大陸がユーラシア大陸にぶつかってプレートが曲がって盛り上がったのがヒマラヤ山脈だ。ねえ、地質学者にいわせると、プレートは流体なんだよ。波打ったり対流したり。そのスパンが長すぎて、普通の人にはカチカチの岩にしか見えない」
「へー、そうなんだ」
「面白いだろ」
「なんの役にも立たなそうだ」
「知識の99%はそうだよ。寝るまえの育毛剤みたいなもんさ。効果がないとわかっていても、やらないわけにはいかない」
「悲しい現実だね」
「馬券も似たようなもんだろ」
ぼくは肩をすくめた。
「反論の余地がない」
「本題に入ろうか」
「そうしてもらえると、ぼくとしても助かる」
「先週のエリザベス女王杯についてなにかいいたいことはある?」
ぼくはちょっと首をひねって考えてみた。
「なにも。レガレイラが強かったなということぐらいかな。あー、そうだ。ライラックが2着じゃなくて良かった」
「君は、セキトバイーストとライラックで悩んでたよね。危なかったね」
「ほんと、はずれたのに助かった気分だよ。まったく助かってないのに」
「セキトバイーストは6着だったね」
「人気を考えたらいい狙い目だったと思うよ。前に行った馬が総崩れの中で粘ってたし」
「満足してる?」
「まさか。予想は悪くなかったと思ってるよ」
「今週はマイルチャンピオンシップだね。君の所感を聞かせてよ」
「勝つのは、ジャンタルマンタルかソウルラッシュじゃないかな」
「その口ぶりだと、買わない?」
「買えないよ、このオッズじゃ。ジャンタルマンタルはリスクに見合ってないと思う。ソウルラッシュは適性だけど、美味しいという感じはないかな。アスコリピチェーノかレーベンスティールの単勝も考えたけど、なにかピンとこない」
「ルメールとレーンなのに?」
「そこなんだよ。毎年、ルメールを買ってるのに、いつも飛ばれてる気がする、マイルCSでは。とくに2022年の、セリフォスが勝ったレースが酷かった」
「君は、ダノンザキッドとシュネルマイスターの2頭軸で三連単マルチを持ってたんだよね。もちろんセリフォスも買ってた」
「11万馬券だよ」
「まだ根に持ってるわけだ」
彼は盛大に歯茎を見せて笑っていた。
「それ以外にも23年のシュネルマイスターだろ、去年のブレイディヴェーグもそうだ」
「たしかに、マイルCSでのルメールの成績はかんばしくないね。君が疑うのもうなずける」
「だろ」
「レーンを買えばいいじゃないか」
「それはそれで罠に見える。だって、前走のレースは津村騎手がこれ以上ない完璧なレースをしてたし、あんなレースがもう1回できるのかどうか。トウシンマカオの調教が良く見えたけど、さすがに距離が長いし、チェルヴィニアはマーカンド騎手が下げて前が壁になりそうだし」
「答えは見つかったのかい?」
「正直、わからないんだよ。なにを買えばいいのか」
「やれやれ。そんなんじゃ、当たりっこないね」
「そうかもしれない。でも、そういう時ってだれにでもあるんじゃないかな。どんなに時間をかけて悩んだとしても、結果は同じような気がする。元の木阿弥っていうのかな、ぼくはそういうことが多いんだよ、ほんとにね」
「それでも、君は競馬新聞を見ずにいられないし、馬券を買わなくちゃならない。まるで遭難するのがわかっててエベレストに登ろうとする登山家のように」
ぼくは遭難する、99%。
それでも、ぼくは馬券を買わずにはいられない。
なぜなら、それはぼくの一部だから。大げさに聞こえるかもしれないけど、まぎれもない真実だ。
ぼくは、ようやく登山家の気持ちがわかったような気がした。ほんのすこしだけど。
「GPS機能がほしいよ。そうすれば、もっと楽に馬券を予想することができるのにさ」


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